『ロシアン・スナイパー』セルゲイ・モクリツキー

ロシアン・スナイパー(字幕版)

監督:セルゲイ・モクリツキー
原題:Bitva za Sevastopol/Battle for Sevastopol
2015年 ウクライナ/ロシア 123分

セルゲイ・モクリツキー『ロシアン・スナイパー』を鑑賞。いわゆる旧ソ連女性兵士もの。伝説的女性狙撃手を主役に、オデッサの戦いセヴァストポリの戦いが描かれる。狙撃戦描写のクオリティが高く、オデッサ撤退時の空中戦等もVFXを駆使した迫力ある映像に仕上がっている。恋愛沙汰が続くのには多少身構えたが、さほどゲンナリさせられることがなかったのは、そこに描出されているのが見慣れた「女であることを求められる苦痛」ではなく(その要素も入ってはいるが然程シリアスではない)、主に「女であることを奪われる苦痛」であり、それが非常に新鮮だったからかもしれない。ハイヒールや女性用下着を焼かれ、激戦地に放り込まれ、銃を抱えて走り回り、狙撃を愉しむ事態にすら陥りながら、恋人の息子を妊娠したいと願う女たち。それが「反動」でもなく「萌え」でもなく、ただ泥と血と酒にまみれたリアルとして示されているのには目を見張った。勿論、性交相手に選ぶのは、命を預け合う狙撃手仲間のみである。

『スリ〈掏摸〉』ロベール・ブレッソン

スリ ロベール・ブレッソン [Blu-ray]

監督:ロベール・ブレッソン
原題:Pickpocket
1959年 フランス 76分

ロベール・ブレッソン『スリ〈掏摸〉』を鑑賞。ドストエフスキー罪と罰』映画版といった趣で、貧しい青年が超人思想に基づいてスリに手を染めるも、社会的制裁を加えられ、無垢な女性によって魂を救済される、という筋書なのだが、『罪と罰』の真の主役がそのハイテンションな記法であり、物語上のアレコレは後景に退いてすら見えるのと同様に、果てしなく連続するガラス窓と、スリという行為を媒介として生み出される異様に研ぎ澄まされた知覚と、種々の手の群れが織りなす自動運動が画面を覆い尽くしてしまうと、プロットなどはちょっとしたおまけに過ぎなくなる。役者陣の機械人形のような存在感が凄い。

『6才のボクが、大人になるまで。』リチャード・リンクレイター

6才のボクが、大人になるまで。(字幕版)

監督:リチャード・リンクレイター
原題:Boyhood
2014年 アメリカ 166分

リチャード・リンクレイター6才のボクが、大人になるまで。』を鑑賞。ある少年が6才から18才になるまでの12年間を、実際に同様の年月かけて撮影している奇作。トリュフォーのアントワーヌシリーズを想起するが、この作品の場合「一本の映画」の中に12年もの歳月が圧縮されているのであり、役者が容赦なく加齢していくそのリアリズムには迫力を感じる。ドラマツルギーに侵されることなく、意味の有ったり無かったりする断片の連続によって紡がれる映像は、一貫して静謐な雰囲気。主役の少年は「アート写真」に傾倒しており、それをフックに鑑賞者の意識はこの物語の形式そのものへと向かうことになる。ここで行われていることは「人生=時間」の異化であり、不測の事態に見舞われることもなく撮影が終了したことへの感慨は、そのまま現実の人生に転写される。
なお「個人の記憶は社会の記憶でもある」ということが実感できる作りになっており、オバマが2014年のベスト映画に選んでいたのは然もありなん。

『リンカーンとさまよえる霊魂たち』ジョージ・ソーンダーズ

リンカーンとさまよえる霊魂たち

Lincoln in the Bardo
George Saunders 2017

ジョージ・ソーンダーズ『リンカーンとさまよえる霊魂たち』を読む。2017年ブッカー賞受賞作である。リンカーンの幼い息子の幽霊を中心に、多種多彩な幽霊たちが登場して(当時のアメリカ社会の縮図を顕現させつつ)語りまくり、遂にはリンカーンの中に入りこんで南北戦争時の決断に影響を与え……という、奇妙奇天烈な幽霊譚&歴史小説。そもそもナラティブが風変わりで、虚実混交の文献の引用や、幽霊たちの語りのコラージュによって繋いでいく、ポストモダニックな造形になっているのだが、これがよく効いている。複数の幽霊が大統領に飛び込んで「我々」となり、アメリカとその(演劇的空間としての)「死者の民主主義」を透視するくだりの独得の感触は、この形式でなければ醸せないものであろう。
なお、鏤められた小物語(各幽霊たちが背負っているストーリー)の方はいたって通俗的であるのに加え、ナンセンスかつド派手な奇想が連続するため、野心的造形にありがちな、退屈なスノッブ感とは無縁である。リンカーンの小さな息子の幽霊に、彼をサポートする個性的な幽霊たち(若妻との処夜に臨む直前に事故死した心優しい中年男、同性との恋に破れ衝動的にリストカット自殺したハンサムな青年……)といった人物配置には、キャラクター小説的な趣もある。慧眼なるポストモダン文学読者、という向きでない読者にもおすすめできる作品と思う。
ただし、チェスタトン『正統とは何か』の特定側面を明るくなぞりすぎていて、悪い意味で「泣ける」気もするが、そのような印象は私の読解不足かも。仕掛けを見落としている可能性。
それにしてもトマス・ピンチョンが帯文を寄せているのにはビックリ。しかし、読んで見れば、ああ、と納得が。

『コンビニ人間』村田沙耶香

コンビニ人間 (文春文庫)

村田沙耶香コンビニ人間』の白眉は、古倉のような人間と白羽のような人間の「近さ」というか、「対」である感じを、凍えるような現実認識でもってピタッと見破り、描出している点だろう。同じことが同じ濃度で行われているのは、今の所、寡聞にしてウエルベックの『素粒子』でしか見たことが無い。

古倉と白羽は共に、現代において支配的な「恋愛→結婚→家族+労働」システムの落伍者である。このシステムは、個体と個体が「労働能力」という変数のもとに「性と感情」を介して結合し、人生/社会を構成するというものだが、システムのプロトコルを直感として理解する能力が先天的に欠落している為システムから疎外された存在である古倉と、システム内部のルサンチマンに塗れた敗者である白羽は、故にそのシステムの生々しい現前を明視せずにはいられない者として、似通った地平を共有する。この二者を挟み撃ちのように配置する時、そのシステム、つまり「普通」が、不気味に浮かび上がってくる。
発達障害アセクシャルインセル、弱者男性といったワードが存在感を持ち始め現在に、このような「対」を中心に据えた時代感覚も卓抜だが、その物語を展開する舞台として「コンビニ」という最適解を選び、完成度の高い構成で描き切っているのもまた凄い。
古倉にとって「世界の安全な雛形」であるコンビニ(ジェンダーレス/マニュアル優位/常同的/無機質な空間)が、しかし白羽の登場により、徐々にその安全性を失い始め、宗教的イメージ(教会の鐘、神父など)や、複数モチーフ(飲食料品・鳥肉・音・水分など)のメタフォリックな変奏に併走されつつ「世界の危険な似姿」としての相を顕にしていき、とうとう真っ逆さまに世界と瓜二つのおぞましさを露呈する。その流れの作り方が非常に巧く、崩壊するコンビニでからあげ棒を持って必死に走り回る古倉にはちょっと泣きそうになってしまったし、既に決定的な偏差を抱え込んでしまった異形のコンビニに、それでも古倉が敢然と「生まれ直そうとする」クライマックスには強く揺さぶられた。
その時、コンビニもまた、世界の無残な相似形であることを止め、狂おしい高まりを見せる「コンビニの音」に包まれながら、新たな位相に創造し直されている。
このエンディングには一つの意味に定位できないような過剰さがあり、その過剰さがやがて「普通」からの闘争的逃走を志向する時、それはSF的な想像力と結びつき、更に極まった造形を獲得することになるのだろう。差し当たっては、コンビニというものが持っている「音と色彩と増殖性」が、その過剰さに鮮烈な輪郭を与えている。傑作。

ウエルベックはもちろん、様々なディストピアユートピア文学や、70年代SFとの比較分析を行うと面白そうだが、そういう論考はあるんだろうか?