『コンビニ人間』村田沙耶香

コンビニ人間 (文春文庫)

村田沙耶香コンビニ人間』の白眉は、古倉のような人間と白羽のような人間の「近さ」というか、「対」である感じを、凍えるような現実認識でもってピタッと見破り、描出している点だろう。同じことが同じ濃度で行われているのは、今の所、寡聞にしてウエルベックの『素粒子』でしか見たことが無い。

古倉と白羽は共に、現代において支配的な「恋愛→結婚→家族+労働」システムの落伍者である。このシステムは、個体と個体が「労働能力」という変数のもとに「性と感情」を介して結合し、人生/社会を構成するというものだが、システムのプロトコルを直感として理解する能力が先天的に欠落している為システムから疎外された存在である古倉と、システム内部のルサンチマンに塗れた敗者である白羽は、故にそのシステムの生々しい現前を明視せずにはいられない者として、似通った地平を共有する。この二者を挟み撃ちのように配置する時、そのシステム、つまり「普通」が、不気味に浮かび上がってくる。
発達障害アセクシャルインセル、弱者男性といったワードが存在感を持ち始め現在に、このような「対」を中心に据えた時代感覚も卓抜だが、その物語を展開する舞台として「コンビニ」という最適解を選び、完成度の高い構成で描き切っているのもまた凄い。
古倉にとって「世界の安全な雛形」であるコンビニ(ジェンダーレス/マニュアル優位/常同的/無機質な空間)が、しかし白羽の登場により、徐々にその安全性を失い始め、宗教的イメージ(教会の鐘、神父など)や、複数モチーフ(飲食料品・鳥肉・音・水分など)のメタフォリックな変奏に併走されつつ「世界の危険な似姿」としての相を顕にしていき、とうとう真っ逆さまに世界と瓜二つのおぞましさを露呈する。その流れの作り方が非常に巧く、崩壊するコンビニでからあげ棒を持って必死に走り回る古倉にはちょっと泣きそうになってしまったし、既に決定的な偏差を抱え込んでしまった異形のコンビニに、それでも古倉が敢然と「生まれ直そうとする」クライマックスには強く揺さぶられた。
その時、コンビニもまた、世界の無残な相似形であることを止め、狂おしい高まりを見せる「コンビニの音」に包まれながら、新たな位相に創造し直されている。
このエンディングには一つの意味に定位できないような過剰さがあり、その過剰さがやがて「普通」からの闘争的逃走を志向する時、それはSF的な想像力と結びつき、更に極まった造形を獲得することになるのだろう。差し当たっては、コンビニというものが持っている「音と色彩と増殖性」が、その過剰さに鮮烈な輪郭を与えている。傑作。

ウエルベックはもちろん、様々なディストピアユートピア文学や、70年代SFとの比較分析を行うと面白そうだが、そういう論考はあるんだろうか?