みんな、ヘン。そして素晴らしき世界。『ファインディング・ニモ』鑑賞:見える/見えないのリズムに浮かび上がる多種多様な形態と色彩

ファインディング・ニモ (吹替版)

監督:アンドリュー・スタントン&リー・アンクリッチ
原題:Finding Nemo
2003年 アメリカ 100分 


 見えることと見えないことのリズムが生み出す映像のドラマはいつも美しい。狭い場所から開けた場所へと画面が移動することで訪れるカタルシス。闇に沈む空間にひとすじの光が差し込むことで湧き上がる聖なる感動。事物の形態と色彩が、失調した視界のフラストレーションから解き放たれて、克明に浮かび上がる時、鑑賞者はより事物への親愛を深め、我知らず心を動かされる。

 グレートバリアリーフに暮らすクマノミのニモは、「片方のヒレが小さいためうまく泳げない」という障害を抱えており、父のマーリンはそんな息子に対して極めて過保護に接しているのだが、そんな父への反発心から、ニモはあえて父の禁を破ってグレートバリアリーフの外に泳ぎ出し、人間(ダイバー)にペットとして捕獲されてしまう。息子のニモを取り戻すべく、グレートバリアリーフから旅立ったマーリンは、ナンヨウハギのドリーというバディを得て、息子探しの大冒険をすることになる。一方、ニモはシドニーの歯科診療所の水槽に閉じ込められるのだが、七匹の先住人たちと共に力を合わせ、脱出を試みる。
 作品はこの「マーリンの旅」と「ニモの脱出劇」のパートに分かれており、それらがクロスカッティングの手法で描かれていく。

 この映画には、ある視覚的な特徴が存在する。それは「遠く」が出てこないということだ。物語の序幕、画面を満たしているのは「海」であるが、当然ながら海というものは近視を強いる。マーリンとニモの棲むバリアリーフ自体は色鮮やかで、透明感に溢れている。ピクサーならではの突出したCG描画による異化作用が、その明瞭さを更に引き立てている。魚たちは自由に、安全に泳ぎ回っているかのように見える。その様子を見ているだけでも非常に愉しい映画である。しかし、ひとたび目を凝らしてみると、明るい箱庭のような空間を取り囲んで広がる遠景は、曖昧模糊とした揺らめきの中に沈んでいる。マーリンはかつて、この薄暗がりの中から現れた巨大な魚(オニカマス)によって、妻とニモ以外の全ての子どもたちを失った過去を持っており、バリアリーフの外部を極端に恐れているのだが、このマーリンの警戒の身振りが鑑賞者にも伝染し、暗がりは形象化された不安として画面に君臨し続ける。
「見えなさ」の問題は、ニモが攫われ、息子を取り戻すべく旅に出たマーリンの旅路においても常につきまとい、深刻度を深めていく。海底に沈んだ軍艦や、クラゲの群れ、都市の排水による汚濁などによって、視界はますます寸断されていく。画面の奥は相変わらず暗く淀んでいる。その不可視の領域には、細い線や小さな染み、不思議な影といった、形なき形が絶え間なくチラチラと滲み出している。そして、その不穏な揺らぎの中から、おぞましいものや、不気味なもの、奇妙なもの、巨大なもの、小さなもの――つまり、ありとあらゆる見知らぬ「他者」が、不意にその姿を表すのである。*1
 この多彩な他者たちの生み出す運動もまた多彩である。サメの荒削りで力強い暴れっぷりや、チョウチンアンコウの鋭角的な旋回、クラゲの大群の幻想的な遊泳、アオウミガメの群れを運ぶ東オーストラリア海流の爽快な吹きすさび……。
 失調した視界に、突然、これらの過剰なものが出現する感じは、非常に目眩的であり、そのまま心地よいサスペンスとなって、鑑賞者を映像世界に没入させる。 
 不明瞭な世界に挑み続けながら、マーリンは旅の相棒であるドリーとの交流を経て、彼女を信じること、彼女を信じながら旅を踏破していくことを学んでいく。ひいては、息子の冒険心も、封じ込めようとするのではなく、信じて見守るべきであったのだと気づくのである。
 見えないことの制約はまた、ままならない肉体の感覚にも響き合っている。例えばニモがダイバーに攫われるシーンにおいて、駆けつけようとするマーリンは、しかし、ダイバーの巻き起こした何気ない水流に、為す術もなく揉まれて遠ざけられてしまう。視界は濁り、身体の自由は奪われる。マーリンが大切に仕舞い込んでいたはずのニモは、絶望的なまでに手の届かない場所へ連れ去られていく。

 一方、ニモが攫われた先であるシドニーの歯科診療所の水槽は、非常に澄んでクリアな視界を備えている。水槽の先住者のうちの一匹である潔癖症の魚ガーグルが、海から来たというニモの紹介を聞いて「バイキンだらけだ!」と叫ぶように、水槽は安全、無菌の地帯であり、皮肉にも正にマーリンがニモのために望んだ環境であるといえる。おとなしくしている限りは、己の非力に打ちのめされるようなこともない。視界はもちろん、診療室の内部に限定されているが、危険に満ちた不可視の領域はどこにもない。しかしそれは人間という圧倒的な強者の都合によって、いつどのように蹂躙されてしまってもおかしくない条件付きの安寧であり、実際、歯科医の姪である乱暴な少女ダーラの元へとやられることが決まったニモは、水槽から脱出するために試行錯誤を繰り返すことになる。水槽の住人のリーダー格であるツノダシのギルの脱出計画は、「水槽フィルターのモーターを停止させて水槽を汚し、歯医者に掃除をさせ、その隙に逃亡する」というもので、実行に移した際には、水槽が濁って辺りが見づらくなる。擬似的に、マーリンの旅路に立ち籠めているものと同じ、不明瞭な視界が出現させられるのである。それは不安の形象であると同時に、外部へと開かれた可能性の形象でもあるのだ。当初は父マーリンの言葉に縛られ挑戦をためらっていたニモも、水槽の仲間たちとの交流や、父が自分を助けるために「外の世界」を冒険しながらこちらへ向かっているという噂を聞き、勇気を得てこの計画に挑み達成する。やがて、好機を活かし、水槽の外に飛び出したニモと協力者ギルは、「陸上」という最大の身体的制約に晒されながら、ニモの脱出劇を成功させるのである。

 シドニーの海で、マーリンとニモは再開する。そこは酷く透明度の低い、濁った海である。つまり完全なる「旅先」、寄る辺のない土地である。この危険な場所で、最大かつ最後の試練が与えられるのだが、二匹はそれぞれの旅で培ったものを出し切ってそれを乗り越える。
 旅に出て、成長し、そして故郷へ帰還する――非常にオーソドックスな構造ながら、父と子の双方の成長を照応させる形で明快に描いていることや、視覚的ドラマの工夫がよく凝らされ、それが物語のテーマと結びついて、澄んだ構造を成していることなどから、子どもにも分かりやすく、しかし子どもだけに留まらない多様な層の鑑賞に耐えうる良質な作品になっている。

 この不自由な視界/肉体の感覚が示すように、これは弱き者の物語である。人間社会では最も守られるべきものに類する幼い少女でさえ、魚たちにとっては恐怖の怪物だ。
 おまけに、登場するキャラクターは軒並み何らかの「ハンデ」を抱えている。マーリンの冒険の相棒となるドリーはおそらく前方性健忘症者であるし、旅先で出会う3匹組のサメは何やらアルコールや薬物といったものへの依存からの回復プログラムの自助グループを思わせる*2。ニモの水槽の住民たちも同様だ。ツノダシのギルはニモ同様に片方をヒレに欠損を抱えており、ヒトデのピーチは異常にのろい速度でしか動けない。ロイヤル・グランマのガーグルは重度の潔癖症であるし、キイロハギのバブルスは泡嗜好性とでもいうべき状態に陥っている。ハリセンボンのブロートは興奮すると自らの意志とは関係なく身体が膨らんで身動きがとれなくなり、ヨスジリュウキュウスズメダイのデブは何かとイマジナリーフレンドとの会話に熱中し、アカシマシラヒゲエビのジャックはフランス語まじりのカタコトを話すのである。彼らを取り巻く世界の住人たちもまた完全なる市民とはいかない。人間たちは無様でみっともなく*3、深海に潜むチョウチンアンコウは会話の余地もない殺戮者であり、カモメたちの頭にあるのはエサのことばかりである。ウミガメのクラッシュやペリカンのナイジェル、クジラ、カニと、ニモの学友たちといった、一見してそれと分かる歪みは抱えていないキャラクターも出てくるのであるが、彼らとその他のキャラクターの果たす役割に、重要性の大小や質の違いは見受けられない。その上、彼らもまた少しずつ「平均」からの偏差を抱え込んでおり、そもそも完全なる市民などというものは存在しないという気にもなってくる。

 あらゆる姿形の、あらゆる能力を持った、あるいは持たない者たち。彼らの多種多様な形態と色彩は、注意深く刻まれる見える/見えないのリズムによって、より生き生きと躍動する。
 つまり、この映画では、パラノイアパラノイアのまま、マイノリティがマイノリティのまま、当然のようにエンターテイメントを構成する魅力的な部品となって、悠然と機能を果たし続けているのである。闇は闇のまま柔らかく横たわり、他者は他者のままそこに存在し、誰もが多かれ少なかれ奇妙で、世界は恐ろしく、そして美しく、すべてはハッピーだ。
 これがもし人間キャラクターであったならば、そこにキッチュなものを感じ取って、鼻白まずにはいられなかったかもしれない。しかし魚の姿を取ることによって、それぞれの個性がそれぞれに充足しているということが、嫌味のない視覚的メッセージとして伝達されることを可能にしている。
 それは希望に満ちたニヒリズムとも言うべき「現代の道徳」であり、ともすれば耐え難い偽善的お説教に堕しかねないところではあるのだが、極めて完成度の高い巧みなストーリーテリングと、映像的な構築によって、見事なまでに説得力のある一篇として結実させている。
 アメリカ的美質に満ちた傑作というべきであろう。

 

*1:深海探検のシークエンスは特にそれを極端な形で感じさせる。そこは光の届かない暗闇の世界であり、マーリンに襲いかかる深海魚(チョウチンアンコウ)は登場キャラクターの中で唯一、全く言葉が通じないモンスター=絶対的な他者である。

*2:普段は「魚は友達、エサじゃない」と互いを励まし合いながら、魚を食らうことへの欲求を抑え込んでいるものの、血の匂いを嗅ぐと我を忘れて襲いかかってしまうのである。

*3:歯科診療所という舞台設定がそれを際立てる。ここでは皆、社会的地位も年齢も関係なく、大口をあけて横たわることしか出来ない。