フェミニズム映画、ではない。『かぐや姫の物語』鑑賞:アニメーションの欺瞞――ヴェール、表象、運動と静止

かぐや姫の物語 [DVD]

監督:高畑勲
原作:竹取物語
2013年 日本 137分 


 ゾートロープというものがある。
 静止した絵を動いているように見せるための装置の一種で、いわゆる回転覗き絵である。等間隔にスリットの開いた円筒の内側に、連続した動作の絵が貼ってあり、この円筒をくるくる回すと、スリットとスリットの間の闇がシャッターの役割を果たして、絵がさながら動いているかのように見えるのである。
 これは19世紀のイギリスの数学者ホーナーが発明したもので、映画の直接の祖先のひとつと言って良い。映画もまた、実際にはフィルムのコマという静止した絵の集合体でしかないものが、映写機のハンドルが回されることによって、ありありと運動を出現させてみせる装置である。
 ゾートロープという単語はギリシア語の zoe(生命)と trope(回転)から成っており、意味としては「生命の輪」といったところか。

 ところで、三鷹の森ジブリ美術館にもこのゾートロープの立体版が展示されている。『隣のトトロ』に登場するキャラクターのミニチュアたちが盤上に鎮座しているのだが、ひとたび盤が回り始めると、突然、命を吹き込まれたかのように動き出すのである。つい先ほどまではただの静かな人形でしかなかったはずのトトロが、ネコバスが、サツキが、メイが、回転のリズムに合わせてぴょんぴょん飛び跳ねる。わたしがこの美術館を訪れたのは既に大学生の頃であったが、それでも大勢の子どもたちと一緒になって、ウットリとそれを覗きこんだものだ。それは何か魔法のような瞬間で、ここが美術館であるということも、午後には講義に戻らねばならないことも忘れてしまうのだった。
 
 言うまでもなくトトロやネコバスといったキャラクターたちは宮崎駿が生み出したものである。私もまた物心ついた頃から宮崎駿のアニメーションに親しんできた者の一人だ。しかし、宮崎駿と並んでスタジオジブリの2大巨匠と称される高畑勲の作品については、あまり好みの作風ではなかったこともあって、キチンとした鑑賞の経験が無い。遺作となった『かぐや姫の物語』も、公開当時は多忙に重なってしまい、観る機会に恵まれなかった。それを金曜ロードショーで放送するということなので、録画しておいたのをようやく今頃になって鑑賞し、初めての邂逅となったわけであるが……いや、これが、なかなかに凄い代物だった。

* * *    

 まず一見して了解されるのは絵の特殊性だ。写実的な背景美術の上を、比較的単純化されたフラットな色彩を備えたキャラクターが動き回るタイプのアニメーションとは、まるで違っている。背景も、キャラクターも、閉曲線のないラフスケッチのような毛筆調の線と、水彩画のような濃淡を含みこんだ色彩によって描きこまれ、同列の位相に配置されているのである。画面に現れる全ての事物の輪郭が閉じられていないために、それらは固有の領域を形成することなく、お互に連なり合っているような印象を与える。ラフスケッチ調の線は、太ったり、細ったり、二重になったり、増殖したり、ささくれ立ったり、それ自体が呼吸しているかのような動きを見せながら、生き生きと物語を運び続ける。二時間以上もの長尺を、である。
 おそらく具現化には非常な困難を伴ったであろうこの手法は、強い意図でもって選び取られたものであると推測する。この絵でなければならなかった理由があるのだ。それは何か。

 この作品には、循環のモチーフが繰り返し立ち現れる。回転運動と言い換えてもよいだろう。幾つかの例を挙げると、作品全体にわたって響き続ける童歌の「まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ」「めぐれ めぐれ めぐれよ はるかな時よ」といった歌詞や、かぐや姫の地球におけるふるさとである山里の四季折々の描写、原作には登場しないキャラクターである捨丸ら木地師の一族の「移動式の生活を営みながら10年周期で山へ戻ってくる」という設定、かぐや姫が満開の桜の木の下で笑い声をあげながら両手を広げて回り続ける恍惚的なシーンなどにそれが見つけられる。
 作中に描写されるこれらの循環の群は全て、すなわち、生命の相として描写されている。月で暮らしていたかぐや姫が地球に憧れこの地に生まれてくる契機となったのは前述の童歌であるし、木地師が山から山を巡り一所に留まらないのは「山に力を残して旅立ち、また山を蘇らせるため」だ。都の暮らしに生気を失っていたかぐや姫が久方ぶりに笑顔を取り戻すのは、まさに桜吹雪のなかで回転運動に身を委ねている時なのだ。循環はまた生態系や輪廻の暗喩でもあるだろう。動いていることは巡っていることであり、巡っていることは生きていることなのである。
 そしてこの生の論理は、この『かぐや姫の物語』というアニメーションを貫く論理=表現技法へと接続されていく。自然と共にあり、循環的な時間の流れの中に動き続ける――そのような生の営みは、背景と人物とが同じ水準に描きこまれ、閉曲線をもたないままにニュアンスのある色彩を孕んで活発に跳ね回る、この作品の画面そのものである。循環する運動の中に生命が溢れ出するように、回転によってゾートロープの静止画が溌溂と動き出すように、アニメ―ションもまた動いている限りにおいて、静止画の群れであることをやめて、魅惑的な映像を紡ぎ出すのである。
 もしも不感症に陥っているのでなければ、鑑賞者の両目はこの作品を満たす卓抜な運動を浴びるように享受して、視覚の快楽に溺れることになるだろう。水彩画に生命が宿ったかのように、花が開き、蝶が羽化する。着物の面を模様がスルスル滑っていく。人物の感情が輪郭線の「変形」というよりも「異変」によって表現されていることにも刮目である。山里の子どもたちが随分と成長の早い赤子であるかぐや姫を「たけのこ!たけのこ!」と囃し立てるのを、翁が反対側から「たけのことは何だ!姫だ!」「姫、おいで、おいで!」と呼び寄せて抱き上げるシーンでは、愛おしさのあまり涙を散らす翁の描線が、突如、グワッと過剰に膨れて、豊かになる。これらの驚異的な映像を目の当たりにする為だけにでも、この作品を見る意味はあるというものだ。

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 そして、何よりも、動画の凄さ以上に、この作品を快作たらしめている要素がある。
 それは、『かぐや姫の物語』が、映像の水準においてはその出色の達成によってアニメーションの勝利を謳い上げながら、物語の水準においては、アニメーションの欺瞞と危険性を、これでもかと告発してみせていることである。

 アニメーションの欺瞞と危険性とは何か、結論から先に述べておこう。
 それは、いくら動いてみせても、結局のところは「絵」でしかないということだ。
 そして、それが「絵」という「イメージ」に出自に持つ限り、実際の表象対象からは隔てられており、それ故に対象から切り離されたまま暴走し、何らかの災厄を齎すものになっていく可能性を常に孕んでいるということなのだ。

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 物語の運び自体は、誰もが知るかぐや姫そのままと言ってよい。
 竹から生まれたかぐや姫が、翁と媼に育てられ、疾く美しく成長し、次々と現れる求婚者たちに難題を要求するも、誰一人それに合格出来るものはおらず、果ては帝にまで求められるが、結局は月へと還っていく。
 大きな追加点といえば、かぐや姫の幼少期が丁寧に描写されていることである。竹から生まれ、春、夏、秋と、たった数ヶ月で赤子から少女に成長するまでを過ごす山里は、かぐや姫にとって生涯想い続けるふるさとであると同時に、ユートピアとして提示されており、先程述べたような運動=生命の相に満ち満ちた場所となっている。そこでは子どもたちや動物たちが動き回り、鳥や虫が空を舞っている。水が流れ、太陽が輝き、季節の食材が溢れている。木地師たちの工房では、木塊から椀を形成するための工程で、様々な回転運動が行われている。このような環境で、かぐや姫は健やかに育っていく。かぐや姫が「なんだか急に大きくなった」と言われる幾つかのシーンでは、必ず直前に何らかの運動が挿入されている。例えば、風が吹く、木々が揺れる、梅が開く、鳥が羽ばたく、蜘蛛が糸を引く、カエルが跳ねる、獣が走る……*1
 しかし、かぐや姫のこの生活は長くは続かない。かぐや姫の幸せ(それはこの時代において、身分の高い男性に嫁ぐことに他ならない)を心から願う翁の考えによって、貴公子に見初められるような「高貴の姫君」となるべく、都に移り住むことになるのである*2。これを境にかぐや姫は山里の遊び仲間たちからの呼び名である「たけのこ」と呼ばれることはなくなってしまう。そして「たけのこ」という語にふくまれた生成の感じ、変化の気分からも遠ざかっていくのである。

 都へ移って以降の物語は、基本的に、「女になれ/静止せよ」という圧力の強まりと、かぐや姫の「人間でありたい/動き続けたい」という抵抗の激しい相克として見ることが出来る。それは取りも直さず「静止画」と「動画」のせめぎあい、「死」と「生」のせめぎあいでもある。

 野山を駆け回っていた生活から一転、かぐや姫には教育係の女官が付けられることとなり、彼女のもとで高貴の姫君となるべく様々な習い事をする日々が幕を開ける。
 最初のうちは、まだしものどかなものである。かぐや姫は「まるっきり遊び半分」で、教育係の女官を怒らせてばかりいる。琴の演奏練習では野放図に音階を駆け回り、立ち居振る舞いの稽古では着物の裾をたくし上げるや否や走って逃げ出し、絵巻物の読み方の作法を習う際には「このように流れるように物語が……」と手本を示す女官から巻軸を奪い取り、勢いよくゴロンッと広げ、「ほんと、流れるようね!」と快哉を叫ぶ。絵巻物は画面の手前側(つまり鑑賞者の方)へ向かって、華やかに転がってくる。
 高畑勲は絵巻物を論じた著作『十二世紀のアニメーション』において、絵巻物はスクロールによってその状況の動いていく様を楽しむ「時間的視覚芸術」であるとし、アニメーションもまたその伝統を引き継いだ同じ構造を備えている、との分析を行っている。かぐや姫が絵巻物を一気に繰り広げてみせたり、手習いをするフリをして『鳥獣人物戯画』を思わせるウサギを落書きしてみせたりする場面からは、静止した絵という永遠の相に閉じ込められることのない「時間の流れの中で動いていくことを指向する力」が、この時点ではまだまだ健在であることが感じ取れるだろう。

 事態が急激に悪化していくのは、かぐや姫が初潮を迎えるあたりからである。かつての遊び仲間に会いたがるかぐや姫に、「いいかもしれないわね」と同意する媼を、しかし翁は「山の連中などとはもう住む世界が違うのだ!」と叱りつける。教育係の女官がお歯黒や引眉を施さそうとする場面では、かぐや姫は声を荒げて反抗し、「高貴の姫君は人ではないのね!」と駆け出していく。状況は深刻な様相を見せ始める。名付けの儀式が執り行われ、その「美しさ」にちなんで「なよ竹のかぐや姫」という名前を授けられることで、それは決定的となる。名付けとはまさに図式化であり、絶えざる運動と生成の最中にある存在を、硬直した一つのイメージのもとに縮減し押し込める行為でもある。
 作中では、かぐや姫を覆う「布」がどんどん分厚くなっていく。まず、山里に暮らしていた頃はどうであったか。ふるさとでの生活を描写したシークエンスは、更に春・初夏・夏・秋の四つの部分に分かれている。まずは赤子であった春のシークエンス。生まれたばかりのかぐや姫はもちろん裸であり、翁と媼の家では短い胴衣を着せられているものの、尻や脚などは露出している。初夏及び夏のシークエンスでは、走り回れる程度には成長しており、膝丈の服を身につけている。水浴びのために少年たちとともに脱衣するシーンも挿入される。秋のシークエンスでは、先述の服に加え、頭部に布を巻いており、それまでになかった兆候、つまり、男女の別の芽生えようなものが描きこまれている*3木地師の少年・捨丸は「おまえがこのままどんどん大きくなって、俺たちとは違うところへ行っちまう気がする」と呟く。そして、都に移り住んだその日、広い屋敷を見て回るシーンでは、服の上から更に一枚、半透明の布を身に着けている。名付けの宴を終えて以降は、着物を何枚も重ねて纒っており、一見して重苦しさが感じられる。着物だけではなく、御簾や几帳、扇子、市女笠の垂衣、牛車の簾といった多くの「ヴェール」が立ち現れ、かぐや姫と世界の間に垂れ下がっていく。「高貴の姫君」へ近づけば近づくほど、ヴェールは厚く、幾重にも張り巡らされ、この「隔て」の向こう側から、男たちは不躾にかぐや姫を品評し、市井の人々は平伏する。かぐや姫は硬直したイメージの向こう側へじわじわと押し込められ、終いには幽閉されてしまう。
 この幽閉の過程は、かぐや姫が「女」になっていく過程(=静止を強いられていく過程)に重ね合わされている。都へやってきた日、色とりどりの着物を「全て姫様のご衣装にござりまするよ」と翁に指し示されて、かぐや姫は歓声をあげて近寄ると、宙に放り上げて「虹みたい!」と叫んでいる。しかし物語が進むにつれて、その煌びやかな色彩は、かぐや姫の運動を減衰させる枷となってしまう。美しいものを眺める主体であったかぐや姫は、都で暮らすうちに、美しいものをとして眺められる客体と化していってしまうのである。
 都での生活には不穏な静止が散りばめられている。山里の川では滔々と流れていた水は、屋敷の庭池ではシンと沈黙している。そこに泳ぐ鯉の動きもまた緩慢きわまりない。自由に空を飛び回っていた鳥は、ここでは籠に閉じ込められている。運動は阻害され、失調している。琴の稽古に励む姫の背後の襖に描かれた「飛んでいる鳥」や、屏風に描かれた「樹木」「山」など、屋敷のいたるところに立ち現れる小奇麗な自然の「絵」は、山里に充溢していた運動=アニメーションを、しかしその正体はただの静止画の連続という紛い物でしかないのだと暴き立てているかのようである。

 名付けの宴で、御簾の外側から男たちに下卑た言葉で品定めされ、狂乱し夜の闇へと飛び出して行くかぐや姫を描いたシークエンスは、この作品における「運動」と「静止」の、最初の大きな対決といってよい。
 かぐや姫は、まず貝合せの貝に描かれた「絵」を両手で割り砕いている。足元に散らばった貝=絵を蹴散らし、「襖」をなぎ倒し、色鮮やかな「衣装」を次々と脱ぎ捨てながら、かぐや姫は都をひた走る。ふるさとの山里へ向かって、絵巻物が凄まじい速さで繰り延べられるように、右から左へと疾走するのである。運動し続ける存在者を、ヴェールによって隔てながら疎外し、イメージの中に監禁し、停止に追い込まんとする圧力に、あらんかぎりの力で抵抗するように。
 この時、かぐや姫の表情を正面から捉えたカットが挿入されるのだが、映し出されている間、常に眉や目を描出する線が変化し続ける。顔のパーツが「怒り」を表す輪郭になるのではなく、線が激しく変更される。その絶えざる更新によって、かぐや姫の怒り・嫌悪・絶望が表現されるのである。
 このシークエンスは圧倒的であり、この作品の白眉といってもよいだろう。
 
 イメージは表象対象からズレる/表象対象を抑圧する、という点の他に、もう一つ、この作品はイメージに関しての問題を描き出している。それは「イメージは暴走する」というものである。
 とある奇異なシーンを検証してみよう。
 かぐや姫に「なよ竹のかぐや姫」の名を授け、名付け親となった斎部秋田が、彼女の美しさを貴公子たちに吹聴する場面である。貴公子たちが興味津々に「覗き込んでいる」その中心で、いかにかぐや姫が自分の授けた「大層な名前」にふさわしい美貌の持ち主であるのかを、斎部秋田は陶然と語りあげている。するとその顔が、マッチカットの技法によって、そのまま「車輪の中心」に変奏されていく。車輪は凄まじい勢いで回っている。この車輪は、貴公子たちが走らせている牛車のものである。彼らの目的はかぐや姫だ。「この世のものとは思われぬほどに美しい」というかぐや姫を妻にせんがため、我先にと屋敷へ辿り着こうと、道端の人々を蹴散らして、牛車を爆走させている。この場面転換において、斎部秋田の顔は、他の事物に比べて長めにクロスフェードの最中に留まっている。そのため、斎部秋田の顔を中心としてぐるぐると車輪が高速で旋転する画が、鑑賞者の中へ奇妙に印象を残すことになる。滑稽であるだけに、いっそう脳裏に刻まれる、一種異様なカットである。車輪は高速で禍々しく回転し、貴公子たちを載せた牛車を運んでいく。
 これが暗示するところはイメージの暴走である。イメージは制御不能となり、かぐや姫から切り離されて流布してしまう。「回転運動」は、静止したイメージに命を吹き込むポジティブなものとして描写されてきたはずが、ここでは硬直したイメージを拡散するネガティブなものとして表現されている。
 求婚者たちは、御簾に隔てられ顔も分からぬかぐや姫の前に殺到し、口々にその美しさを褒め称え、様々な「宝物」に例えはじめる。このあたりはトロフィーワイフという言葉を想起するくだりである。
 それに対しかぐや姫は(おそらく殆ど報復として)、その宝物を持ってきてみせろと無理難題をふっかける。自分の上に貼り付けられたイメージが実体を持たない空疎なものであることを思い知らせようとするように。求婚者たちは肩を落とし、連れ立って退散してくのみである。
 こうして、求婚者たちを追い返すことに成功すると、一瞬、「運動/生」の勢力が盛り返す。静止への圧力のシンボルでもあった教育係の女官は「もはやわたくしに出来ることはありません」と屋敷を辞していき、かぐや姫は意気揚々とお歯黒を拭い去って花見へと出かけていく。牛車の簾は上げられており、そこから見える景色には鳥が羽ばたき、虫が飛び、植物が揺れている。大きな桜の木に辿り着いたかぐや姫は、笑い声をあげながら、桜に同化するかのように両手を広げて回り始める。画面には豊穣な運動が一気に溢れ出す。
 しかし、側に居た小さな子どもにかぐや姫がぶつかることによって、唐突にその運動は停止してしまう。子どもの母親に「申し訳ございません、申し訳ございません」と平身低頭され、ショックを受けたかぐや姫は、市女笠を被り、虫垂の布を自ら降ろし、その影に隠れるようにして、沈んだ面持ちで帰路につく。既に自分は、ヴェールごしの「高貴の姫君」というイメージに閉じ込められてしまった存在でしかない。そして道中、捨丸が盗みを働いている場面に遭遇するのだが、かぐや姫は牛車の幕の隙間から、ただ見ていることしかできないのである。全ては決定的に変わってしまったのだ。

 虚しい生活のなかで、かぐや姫は離れの小屋で過ごす時間を心の慰めとするようになる。ここに居る間だけ、彼女は重たい着物を脱ぎ、裏庭で虫や草花と戯れることが出来る。常に静止への圧力の働く現実から逃れていられる唯一の避難場所である。翁が「現実」*4を報せにやってくるシーンが数回あるのだが、彼が足を踏み入れるのは入り口付近までであり、裏庭へ続く土間へと降りてくることはない。小屋には機織り機が置いてあり、かぐや姫が床に座り込んで糸巻きを回す場面が描写される。弱りきってしまった運動が、ここでは微かに息をしている。
 また、この小屋の裏庭で、かぐや姫が特に心を砕いているのは、ふるさとの山里を再現したミニチュアづくりである。この涙ぐましい復元の試みは、しかし、再現である以上、イメージがその表象する対象とは切り離されて存在するように、山里自体とは殆ど関係の無いものでしかない。かぐや姫の上にはりつけられた「なよ竹のかぐや姫」という名、それに伴う「高貴の姫君」というイメージが、彼女自身から常にズレ続け、手の届かないところで空疎に増殖し拡散するだけのニセモノでしかないのと同じく、山里のミニチュアは山里のニセモノなのである。
 そのことにかぐや姫が直面せざるを得なくなるのは、求婚者たちの一人であり、最も年若い人物でもある中納言の、落命の報を受けたときである。彼はかぐや姫から持ってくるように命ぜられた燕の子安貝を手に入れようとする過程で怪我を負い、そのまま死んでしまう。そう、人は、ニセモノのイメージのために、情熱を燃やし、命まで捨ててしまうこともあるのである。
 かぐや姫は荒れ狂い、手塩にかけていたはずのミニチュアの山里を衝動のままに破壊する。「ニセモノ、ニセモノ、ニセモノ! みんなニセモノ! 私もニセモノ!」というかぐや姫の絶叫は、ヴェールの向こう側に幽閉され、イメージに実体を奪われようとしている者の断末魔の悲鳴であると同時に、己に貼り付けられたイメージとの付き合い方に失敗し、イメージの暴走に手を貸してしまったことで自責の念にかられる者の慚愧の叫びでもある。あなたのせいではない、と慰める媼に、かぐや姫は激しく「いいえ、私のせい! ニセモノの私のせいよ!」と反応する。かぐや姫が製作に熱中したミニチュアの山里は、彼女がイメージを巡る問題に関して全くの無罪ではいられないことの証左である。彼女はイメージに閉じ込められた被害者というだけではなく、自らもまた現実逃避のためにイメージを利用した共犯者なのである。嫌悪しているはずのシステムへに、しかし自身も既に参加してしまっていることを、かぐや姫が自覚した瞬間である。

 そもそも、あの名付けの瞬間、決定的にイメージが自分の上に張り付けられる瞬間、かぐや姫は名付け親の斎部秋田の前で、美しい着物を身に纏い、扇子で顔を多い隠し、優雅に挨拶をし、完璧に琴を奏し、まさに「高貴の姫君」のように振る舞ってみせたではないか。力づくで強要されたわけではない。翁がかぐや姫に酷く無理強いするようなシーンは一度もない。ただ、化粧も施さず素顔で猫と戯れるかぐや姫を、客の前で「面目ない」と恥ずかしそうにしてみせただけだ。山里の遊び仲間に会いたがるかぐや姫に「同意する媼に対して」声を荒げてみせただけなのだ。
 高貴の姫君としての様々な習い事も、教育係の女官の前では反抗してみせる一方、父である翁の前では真面目にやりおおせた。「見違えるほどにおしとやかにおなりだ」と翁に褒められて、彼女は確かに得意げだったではないか? かぐや姫は自らその道を選び取った――。
 その選択はもちろん、明確な意志に基づいて行われた訳ではない。まだ赤子であった春、「姫、おいで!」と翁に呼ばれ、かぐや姫は「たけのこ、たけのこ」と囃す山の子どもたちに背をむけて、彼女を深く愛し、庇護してくれる父の方へと歩み寄った。あの時、何の瑕疵が赤子のかぐや姫にあったというのだろう。しかしあの場面で既にかぐや姫の選択は予見されていた。
 受けた愛情に報いたい――都への移住に従ったのも、高貴の姫君としての生活を受け入れたのも、全てはその思いの延長線上にある。どれほど都の暮らしが耐え難いものであろうとも、本気で逃亡・反抗しようとしなかったのもそのためだ。けれども、父に従いきることも、かぐや姫にはできなかった。女として静止させられることが我慢ならなかった。他人の所有物となることが許せなかった。裏庭のミニチュアを慰めとしながら、のらりくらりと先送りにし続けた。イメージに苦しめられながら、イメージの作り出す幻に逃げ込んだ。そのことがこんな結果は生むとは思わなかった。それでも、人一人の死の前に、何も悪気はなかったのだと、何故言い訳ができようか。「父を悲しませたくない、けれども思うように生きたい」という、そのあまりにも当たり前の欲求が、必然のように自らの魂を殺し、どうしようもなく恐ろしい現実を招き寄せる。愛情に包まれ、胸が膨れ、初潮が訪れ……そうして自然に生きているだけで、いつの間にか、社会に張り巡らされた人工的かつ非人間的な網の目に絡め取られていく。出口のない迷宮に迷い込んでいる。

 その後もかぐや姫のイメージの拡散はとどまるところを知らず、やがては御門にまで届くことになる。御門は翁への官位の授与を約束し、かぐや姫に宮中へ上がるように命ずるが、かぐや姫は拒絶する。そのことが逆に御門の興味をそそってしまう。御門はかぐや姫のもとへと忍んでいき、背後から抱きすくめて連れ去ろうとする。ここにまたしても異様なシーンが出現する。ヒイ、と悲鳴を上げ、嫌悪感の頂点に達したと思われるかぐや姫は、突然全ての表情と色彩を失って、御門の腕の中から姿を消してしまうのである。時は夕暮れであり、世界もまた一様に淡い茜色に沈んでいる*5
 ひとまずは諦めて帰っていく御門であったが、去り際に「私の物になることが、そなたの幸せだと信じているよ」という言葉を残していく。この時からかぐや姫は夜に月ばかり見て過ごすようになり、機織り機やミニチュアの山里のあった離れにも全く足を運ばなくなってしまう。翁と媼に問い質され、かぐや姫は告白する。御門に連れ去られそうになった時、自分は「もうここにはいたくない」と月に助けを乞うてしまった。そのため、月から迎えがやってくることになったのだと。
 機織りは動きを止め、庭は放置された。弱々しくも行われていた抵抗は止まってしまった。運動は遂に静止に追い込まれた。かぐや姫はひとりごちる。「私は一体この地で何をしていたのか。誰かのものになるのは嫌だとダダをこね、お父様の願いを踏みにじっただけ。偽りの小さな野や山で、自分の心をごまかして」――。
 そして、八月十五日の満月の夜。必死にかぐや姫を地球に留め置こうとする翁たちの奔走もむなしく、かぐや姫は月へと帰っていってしまう。
 この時かぐや姫を迎えに現れる月の使者は、明らかに来迎図を意識したデザインになっている。月がこの作品において「死」のメタファーであり、静止したイメージのシンボルであることが了解される。
 
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 お気づきのように、物語を記述するにあたって、高畑勲フェミニズム的な観点を導入した。実際にSNSなどを覗いてみると、この作品のそのような部分に注目した鑑賞報告が多いようである。しかし、フェミニズム的な作品として見た場合、特に目新しい点があるわけではない*6。また人間のモノ化の力学に関する研究成果は、フェミニズム以外にも、オリエンタリズムポストコロニアルといった各分野に蓄積しているのであり、そういう意味では人生の困難とイメ―ジの脅威を重ね合わせながら物語る際に、必ずしも女性の客体化の問題系を採用する必要はないと言える。それはテーマではなく、作品を記述するための取替可能なツールに過ぎない。そのため鑑賞においても、フェミニズムというよりは、更に抽象度を高めて、西洋哲学における疎外論・物象化論や、まなざしによる他有化をめぐる思考などを援用した方が、捨象されるものも少ないのではないか。
 ただ、鑑賞においてはそうであっても、『かぐや姫の物語』という作品の造形においては、女性の客体化の問題系というツールが選択されていることはやはり奏功であろう。女になる/月に接近する/死/イメージに塗り込められる/運動が停止する、といった変奏が『竹取物語』の再解釈として非常に巧みである。

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 これは、生を謳歌していたはずの人間が、知らず知らずのうちに社会に絡め取られ、そこにおいて駆動しているシステムによってイメージの中に幽閉され、停止に追い込まれ、(ニセ)モノとして扱われ、そういった悲惨な現実からの避難場所すらも、自分を苦しめるものの同類にすぎないと思い知らされ、己もまたこのおぞましいシステムの一部なのだということに絶望し、後悔し、死んでいく物語である。

 しかし、それでも、月の使者に対して地球のことを「汚れてなんかいないわ!」と叫んでみせたかぐや姫のその言葉が、えもいわれぬ説得力を帯びて胸を突くのは、この絶望的な物語を紡ぐ「映像」が、生きること=運動することそれ自体の純粋な喜びを、ぎりぎりのところで擁護しているからに他ならない。
 物語においては、イメージの負の側面を執拗に膨れ上がらせながら、形式においては、線が、色が、形態が、つまりイメージが、その尋常ではない成果によって、見事な運動を出現させ続ける。
 この、アイロニカルかつ強烈なコントラストこそが、この作品の魅力の真髄であろう。

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 数多のプロパガンダ映画の例を引くまでもなく、映像の時代はイメージの足元に多くの死体が積み上げられた時代でもあった。
「映画は大衆を教育するためのもっとも有力な道具の一つである」とレーニンは言った。
 イメージは、その対象から隔てられてある一方で、確かな感触を伴って了解され、にも関わらず根ざす実在を持たないために、容易に操作されてしまう性質を持っている。空中を浮遊するイメージは、制御を失って膨れ上がり、表象の対象となっている人物・集団の魂や肉体を殺すこともある。人々を魅了し、命を差し出させ、あるいは殺戮へと向かわせる。
 そのようなイメージを他者に向かって貼り付ける行為は、何も国家的野望や、特殊な悪意のもとに展開するものではなく、ごく日常的に行われている。翁が「高貴の姫君」「この国に生まれた女として最高の幸せ」という既存のイメージからついに逃れることができなかったように、イメージは私達の社会制度、習俗、因習に分かちがたく結びついており、敵意や無関心のみならず愛情をもって幽閉が行われることも多々あるために、そこから離れて生きることは難しい*7
 誰もが互いの上にイメージを貼り付けあっている。死の相を宿した、硬直したイメージを。

 このイメージの「ニセモノ」性は、アニメーションにおいては更に深刻になるであろう。実写では視覚化不可能な過剰さを、しかしアニメーションでは視覚化することが出来る。出来てしまうがゆえに、実体からの距離もまた大きなものになりがちである(大きなものになっても成立する)。
 高畑勲は先ほども引いた『十二世紀のアニメーション』において、更に次のように記述している。

 油絵で丁寧に描いた肖像画よりも、線でさっと捉えた落書きの方がはるかに本人を感ずる、などということがしばしばおこるように、このような絵を見るとき、描かれたモノの「ホンモノっぽさ」にとらわれず、人は、その「よすが」を透かして、裏側に実在する「ホンモノ」の特徴やその引き起こす諸現象だけを受け取ろうとする。(p.142)

 それはつまり、アニメーションとは、実体に対してよりホンモノでなく、にも関わらずよりホンモノ感がある、ということだ。映画が抱えるそういった問題が、アニメーションにおいては先鋭化し純化されているとも言える。*8

 我々は、まやかしにすぎない映像が、時には暴走し、表象する対象からかけ離れ、人々の心を惑わし、命すらも奪ってしまうということを歴史的に知っている。アニメーションは静止画の集合体、ひと時の夢を見せるだけの目眩ましであると知っている。ただの絵であることをやめ、あたかも生きているかのように「見せかける」ことを始めた瞬間から、この欺瞞は始まっている。アニメーションは常に、不活性な絵であることと、動いてあることの間に、不穏に引き裂かれている。
 にも関わらず、我々は、それでもアニメーションを、イメージの躍動を愛することをやめられない。ひとたび映画館の暗闇に包まれ、映写機が回り始めると、すべてを忘れて没入してしまう。
 我々が愛しているものはニセモノだ。だが、それは、何と魅惑的なニセモノだろう。あの求婚者たちが次々と持参する、あるいは目撃する「ニセモノ」たちの、そのアニメーションの、なんと素晴らしいことだろう。きらめく蓬莱の玉の枝や、炎にくべられて身をうねらせる火鼠の皮衣、嵐と波間に顎門を開き咆哮する巨大な龍……どれもがまさにそこにあるように、生き生きと描写されており、その動きを見ているだけで、甘美な心地良さに浸ることが出来る。
 そして、物語のクライマックスに訪れる、かぐや姫と捨丸の飛翔のシークエンス。目が醒めれれば消えてしまう儚い夢として処理されるこの飛翔は、いわばこの映画の要約である。二人がそれぞれの現実*9を棚上げにして「逃げよう」と手を取り合うと、身体が宙に浮き上がり、ふるさとの自然の上空を縦横無尽に駆け巡るのであるが、最終的には不意に降りそそいだ月光によって停止させられる。上映終了時刻が訪れて映写機が止まり、月光さながらのしらしらとした明かりが、有無を言わさず映像の恍惚をかき消してしまうように。しかし、だからこそ、そのほんの束の間の飛翔の美しさは、何物にも代えがたい。鳥が羽ばたき、虫が舞い、雨が降りそそぎ、衣がはためき、髪がたなびき、野山や田畑が後方へと飛び遊んでいく。映り込むもの全てを言祝ぎながら、これでもかとばかりに画面が動く。
 そこにはただ、動くこと/生きることの悦びが無邪気に湛えられている。色彩と形態がそれ自体で充足し、豊穣に跳躍している。その様をアニメーションの形式の新しさとクオリティの高さによって表現しようという野心、またその達成に驚く他ない。

かぐや姫の物語』は、アニメーション、つまりニセモノの画がつくりだすホンモノであるかのような運動に魅入られた人間の、罪深さの自覚と、懺悔と、自戒と……そして肯定の一作であるのかもしれない。この極めて注意深い倫理の仕草が、私には深く印象された。

 

引用文献
十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの

十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの

 

*1:動の主体は植物→虫→獣と、生態系を移動していく。また、カエルは交尾をしており、その次に現れる獣は子どもを連れているなど、連続性が付与されている。

*2:この都への移住においては、失楽園を想起させる描写が為されている。畑から瓜を盗み出し、木地師の少年・捨丸と二人でそれを食べるシーンの直後に、翁が竹から何枚もの美しい着物を授かるシーンが配置されているのだが、この出来事によって翁はかぐや姫を「高貴の姫君」として育てることを決意し、都へ行く準備を始めるのである。

*3:捨丸の両手がかぐや姫の両胸に当たってしまう描写や、かぐや姫が頭布を取り去ると長くなった髪の毛がほどけ落ちる場面などがそれに当たるだろう。夏のシークエンスにおいて、かぐや姫が裸になるのを見た少年たちが呆けるシーンも、その更に前段階の萌芽として見ることが出来るかもしれない。

*4:それは主に、「高貴の姫君」であるかぐや姫に対する、男たちの求婚である。

*5:翁が金粒や衣裳を山里の竹から授かるのもまた夕暮れ時である。幻想的な効果音と背景音楽も、このシーンと同じものが使用されている。

*6:抑圧する父、寄り添うも無力な母、客体であること=悲惨/主体であること=善など、フェミニズム批評のフィルターを通して見たかぐや姫の人物配置・現実認識は、やや古色蒼然として感じられる。

*7:例えば、かぐや姫に贈られた鳥を見た翁が、姫を喜ばせようとして「ひとつ昔の手慰みで、とびっきり上等の竹籠をこの翁が手ずから編んでさしあげましょうかな」と言うシーンがある。山里に居た頃、翁はおそらくはこの竹道具をつくる技術によって生活を送り、かぐや姫を養っていたはずだ。そのようにかぐや姫の成長を支えた翁の技術や愛情は、必然のように、やがて姫を閉じ込めるものに変貌してしまう。

*8:規制論議においてアニメが取り沙汰されやすいのもこのあたりに要因の一つがあると思われる。糾弾する人々は「よりホンモノ感がある」=鑑賞者に対し垂直に入ってくるということを問題視しており、反論する人々は「よりホンモノではない」という部分をして無害性を強調することになる。

*9:かぐや姫は月への帰還を目前にしている身であり、成長した捨丸は妻子と仕事仲間たちを持つ身である。